男女平等と男女同権
私は男女平等という言葉があまり好きではありません。これは子供時代の経験からくることなのですが、私が子供の頃、70年代中盤までは世界中でウーマンリブ運動が巻き起こっていました。現在と同じ、女性の地位権利向上を目指したものでしたが、これが醜かったんです。
ウーマンリブ女性活動家と一部のフェミニスト男性にとって、「だから女は・・・。」という言葉は格好の餌食でした。そんなことを言った男性は吊し上げられ、罵声の嵐が巻き起こったんです。ややもすると、「女性は男性より優秀なのに虐げられている。」的な発言も多々ありました。
今でもたまにいますよね、こういうこと言う人。本当は女性の方が偉いんだ、的な発言を堂々とする人。男女平等というとどうしてもこのことが頭をよぎってしまいます。
まあ、過激な運動というのは沈静化するもので、日本でも中ピ連(ピル解禁を要求する団体)が過激に活動していましたが、こういう逆差別的な運動を展開していると皆が去っていき、70年代後半には解散したような気がします。
当時はそうでもなかったのですが、現在では脳科学的にも男性脳と女性脳があることが分かってきたように、男女に能力差があることは当たり前になってきています。少し前に流行った本「地図を読めない女性、話しを聞かない男性」はこれを如実に表しています。
男性には男性特有の、女性には女性特有の能力が歴然としてある訳です。どちらがより優れているか、という問題ではなく、そういう男女差っていうのはあるのが今や常識となっています。男女に能力の違いが必要なければ雌雄同体でいいわけで、男女に分かれているのはそれぞれに役割分担が進化の過程で生まれてきたからです。
つまり、人間は生物であり、生物である限り子孫を残すというのが生まれてきた最大の使命です。そのために、原始時代から男性は食料を確保するために狩りに出、女性は子供を産み育てるという役割が与えられたわけです。
より良い狩場を求め、男性は遠くまで行く必要に迫られるわけですが、方向が分からないと家に帰れなくなる危険性があるため、空間把握能力、つまり地理を読む力が必要となり、女性は子供を育てるため、地域コミュニティと円滑に物事を進める必要性があったわけです。
これは遺伝子レベルとして未だに存在し続け、男性の地域コミュニケーション能力は女性がやってくれるのでさほど高くなくても問題なく、女性は家の近所さえ分かればよいので地図を読む必要性が余りないということだと思います。
食事を作るのは主に女性なのにコックに女性がいないのは封建的だ、という意見については、コックというのは体力仕事であり、また水回りの仕事であることから冷えの問題もあり、女性に向く職業ではないというのが正しいのではないでしょうか。
なので、私の場合は、男女を同じように扱うのではなく、分けて考えます。仕事上、女性と付き合うこともありますが、男性に対するより女性にはなるべく乱暴な言葉は使わないようにしますし(男性にだったら、「バカか、おまえは!」位の事を普通に言いますが、女性に対しては絶対に使いません。)、やはり女性に対しては気を使います。
特に最近はセクハラ問題がありますから、男性だったらパソコンを横から割り込んで指導したりもしましたが、女性だったら席をどいてもらってからパソコン操作するといった具合です。体に触れでもしたら大変なことになりそうなので。
要するに、男女差別というより男女区別はします。ただ、気を付けていることは女性だからといって意見を最初から無視するようなことはしないようにしています。男性目線ではない女性の意見って結構面白かったりしますし、逆にさすが女性だな、っていう考え方もあります。
なので、私は男女平等というより、男女同権主義です。能力さえあれば女性だからといって排除する必要なないということです。逆に最近の女性の能力をもっと認めて活躍してもらおう、という機運には、これ以上女性の立場を強くしてどうするつもりだ、位の気持ちを持っています。
実は、男女を区別して考えるというのは法律上にもあり、憲法14条で性別による差別を禁止しているにもかかわらず、労働基準法では産前産後の休暇が認められているのは女性だけです。これは相対的平等を意味し、同一の事情と条件にある者は均等に扱うが、そうでなければ区別は必要である、という考え方に基づいています。
今、また、セクハラ問題で女性の権利云々が大問題になっていますが、あくまで上記の様に、男女には違いがある、ということを前提に話しは進めていただきたいものです。それでなくても日本人男性は委縮しているので、余りいじめないでくださいね、女性の皆さん。